西平タイジのコト。西平タイジのコト。

私、西平タイジの自己紹介をさせていただこうと思うのですが、書き始めたらストーリー仕立てになってきたのでそのまま載せます(笑)。
私の35年間の経験を凝縮して書いています。ぜひご覧くださいませ。


第1章:降格

半年で店長になった。
入社最短記録だった。

だけど3ヶ月で降格した。


1990年代に、私は初めて飲食企業の社員になった。
その前は、飲食業ではないある大手メーカーの研究職にいた。
当時、就職人気ランキングのトップ5に入る企業だった。
学生だった私は、内定を取れたことに満足して職種も未来も深く考えずに入社した。

そしてその人気企業を たった1年3ヶ月で辞めた。

親には大反対された。当然だ。
でも当時の私には「独立したい」という願望だけがあった。
なんの根拠もない。まさに根拠なき自信だけがあったのだと思う。

飲食業を選んだ理由は単純だった。「30歳までに独立できそうだから」。
何も調べていない。ただの感覚だった。

今思えば、まるで子供のような発想だったと思う。


そんな飲食業に入って半年、
たった半年で店長に抜擢された。

ただし、それは実力でなったわけではなかった。
近隣に新店がオープンすることになり、自分のいた店の店長がそちらへ栄転するための、その穴埋めとしてだった。

店長になった途端、売上が月400万円消えた。
800万円を売る真新しい店が、すぐそばにできたのだから当たり前だ。

入社半年の私には、売上減に合わせてシフトを調整する力がなかった。
当然ながら人件費率が膨れ上がった。

そして何より、現場を回せなかった。

3歳年下の部下がいた。バイトから社員になった男で、オペレーションの鬼だった。
彼から見れば、私は「何もできない店長」に見えていたと思う。
下から突き上げられ、チームは空中分解寸前だった。

3ヶ月後、本部長の判断が下った。

君は降格だ。まだ無理だった。


第2章:仕組みとの出会い

もうプライドは残っていなかった。
だから私は、会社に一つだけ願い出た。

「どうせならトップ店長の下に付けてほしい」
希望は通り、T店へ異動した。一般社員として。

トップ店長のいるT店には「仕組み」があった。
まさに私が欲しかったものがそこにある気がした。

それは会社のマニュアルではない。
その店長が独自に作り上げた、人件費管理のマニュアルだった。
そこには、私が今でも使うフレーズが表紙に書かれていた。

「人件費は削るものではない。
お客様とスタッフのために、”適切に”使うものだ」

私を沈めたものの正体が、そこにあった。


3ヶ月間、私はメモを取り続けた。
パートさんにも頭を下げて教わった。
その店長の動き、判断、言葉。すべてを吸収しようとした。

3ヶ月後、別の店の店長として復帰することができた。

そこからは、ほぼうまくいった。
会社が出店を加速させていた時期だったという追い風もあった。
その後、店長を11ヶ月やっただけで、私は本部のSVになることが決まった。


第3章:SVの限界

SVを約2年やったころ、私は28歳になっていた。

飲食業のキャリアはまだ3年ちょっと。
たまたま会社が出店ラッシュだったから、その機運に乗れただけだ。

ただ、私はもともと独立志向でこの業界に入ったのだ。
だから人一倍、業界紙を読み、マニュアルを暗記し、仕事が終わってから毎日3時間は事務室で勉強していた。

実は飲食業に入る前、
私は大学の卒論で「チェーンストア理論」について研究していたのだ。
卒論のテーマは確か「チェーンストア理論と出店の金太郎飴戦略」みたいな感じだったと思う。(もしかしたら少し違ったかもしれないけど)

きっかけは在学中のアメリカ放浪旅行だった。
たまたま友達になったアメリカ人から、スーパーマーケットのチェーンが驚くべきスピードで出店していく話を聞いたことが興味のきっかけだ。

なぜそんなに早く店舗拡大できるのか。
その疑問が、私の原点だった。

しかし、私が任せられたSVの仕事は、ただの「チェックマン」だった。


担当店舗は58店舗。300店舗規模の会社でSVが7人しかいなかった。
当時の私のルーティンは、ビジテーションレポート(用紙)を持って臨店し、温度がどうとか、盛り付けがどうとか採点する仕事。

FC店のオーナーは、私より10も20も年上の大先輩だ。しかもこの店のことを私なんかより遥かに知っている。
経験の乏しい若者の指摘など、ほぼ無視された。「レポート置いておきますねー」と言って逃げるように店を出たことも何度もあった。

飲食業に入って初めて思った。
「この少ないキャリアで、こんな仕事をしていていいのだろうか」

独立が遠のいていく気がした。


第4章:運命の出会い

大学の先輩がキリンビールのエリア担当をしていて、月に1回くらい飲みに連れて行ってもらっていた。

ある夜、私は愚痴をこぼした。
「このままこの仕事をやっていたら、独立なんてできない気がします」

すると先輩が言った。
「そういえば、お前の実家のあたりに、まだ3店舗で規模小さいけど、現場に強い外部SVみたいな人材を探している会社がある。会ってみるか?」

それほど興味があったわけではないが、先輩を立てて手ぶらでついて行った。

履歴書もない。今の会社の現役SVであることも伏せて、まずは話をしてみようという軽い気持ちだった。


社長、専務、常務の3人と会った。
雑談から始まり、飲食業のこと、自分の夢。
気づけば3時間以上話していた。

「今夜、予定ある? 一緒にうちの店行こうよ」
店で食事をしながら、ボールを投げられ続けた。

「このホールオペレーションの課題、すぐにわかる?」
「このメニュー、見た目予算はいくらくらいだと思う?」
「この価格の料理に、このクオリティの皿は必要だと思うかい?」

質問というボールは、全部で50くらいは飛んできた。

だけど私はこういう知識論には自信があった。
チェーンストア理論をびっちり研究してきたのだから。

でも途中から、別の感情が湧いてきた。
それは「波長」だ。

たぶん、この人たちと目指しているものが同じなんじゃないか。
社長たちも、同じように感じていたのだと思う。

帰り際、社長が言った。
「西平君、独立する気はないかい?」
「そのつもりでこの業界に入りました」
「なら、私たちのパートナーにならないか」
「パートナー? どういうことでしょう」

私の頭には「?」がいっぱいだった。
そもそも私はこの「3店舗規模の会社にSVが必要」とは思えなかった。

社長が言った。

「うちは上場を目指しているんだ。
今までの経験の中で、SVという職種は誰も経験していない。教えてほしい。そして君の持っているチェーン化の知識を、うちで試してほしい」

今3店舗しかない会社が上場?
普通なら笑ってしまうようなこの話も、
「この人たちならやってしまうのかもな」と思えたから不思議だ。


私はフリーランスの「店舗展開SV」として、
その会社の組織形成を任されることになった。

それがG社との出会いだった。
30歳のことだ。


第5章:郊外型居酒屋の転換

G社には4号店の計画があった。郊外型の居酒屋業態。駅前で月商1,000万円を売る1号店の郊外版として、すでに図面もデザインもできあがっていた。

しかし私には不安があった。

道交法の改正がさらに強くなるという話があった。はたして人は車で居酒屋に行くだろうか。「つぼ八」や「村さ来」の郊外店は、道交法改正以降、不振に陥っていた。

着工1ヶ月前、私はその疑問を会議で投げかけた。
「居酒屋はやめて別の業態にしませんか?」

入りたての外様SVだ。普通なら空気を読んで黙っている。でも言わずにはいられなかった。

議論が進み、結局その業態は郊外型の大型焼肉店に変更された。

私はオペレーションの組み立て、人材育成の仕組み、店長の仕事の明文化、2号店に向けた準備。すべてに取り組んだ。

その店はオープン初月で3,000万円を売り上げた。
敷地600坪、席数95席の大型焼肉店。土日は毎週90分待ちになった。


第6章:怒涛の展開

私はこの業態を最初から多店舗展開させることを意識していた。

2号店は10ヶ月後にオープン。3号店はさらに1ヶ月後。1号店から1年もたたないうちに3店舗体制になった。

私はこのタイミングでFC展開を提案した。

ただしこの業態は出店に約1億円かかる。個人での加盟は難しい。
だから企業の新規事業としてのFC展開を進めることにした。

繁盛のうわさを聞いて、有名企業からのオファーが来るようになった。
FC1号店は、誰もが聞いたことのある企業の関連子会社だった。

FC募集から加盟契約、開業プラン、店舗建築、店長教育、開業前研修、店舗管理帳票。すべて私が指揮を執った。

初年度でFC契約9社。オープンまで行けたのが6社。3号店からは教育店長を育て、その教育店長がFC店長候補者の受入研修を行う仕組みを作った。

3年目には21店舗体制へと飛躍した。


第7章:出店ラッシュと歪み

FC事業部を立ち上げ、教育店長を責任者に抜擢した。

私自身も「展開コンサルタント」として法人化し、いよいよ直営店の出店ラッシュをかけることになった。

立地戦略はドミナントではなく郊外の「地域一番店型出店」。
商圏10〜20km圏内で勝負できると踏み、その地域で最も栄えているロードサイドに1店舗ドンと構えていく。

目標は2年で30店舗。結果は38店舗。FC含めて2年間で51店舗を出店した。大きな成功体験だった。

しかし翌年、思わぬことが起きた。

出店計画に対して、店長の数が足りなくなってしまった。
育成は進めていたが、出店ペースが速すぎたのだ。

やむなく、他社で現役店長をしている人材をキャリア採用することにした。大手ハンバーガーチェーン、ファミレス、居酒屋チェーン、丼チェーン。様々な会社から店長経験者が入ってきた。

これが後に、大きな歪みを生むことになる。


第8章:派閥

成果を出したある丼チェーン出身の店長を部長にして、直営営業本部を作った。
部長1名、エリアマネージャー3名の体制でスタートした。

その組織ができてすぐに、部長が元部下(丼チェーンの)を次々と入社させ始めた。気づけば部長以下AM10名体制。そのうち8名が元丼チェーン出身者という体制になっていた。

そう、あっという間に派閥ができていたのだ。

創業期から引っ張ってきた店長やAMは、退社やFC事業部への異動で半数に減った。独裁的な支配が、直営営業部にはびこり始めた。

私は直接介入しようとした。部長の行動を制御しようと考えたのだ。
すると今度は、数の論理で私を排除しようとする動きが出てきた。

外部コンサルタントという立場。社員でも株主でもない。
数で押されれば、弱い立場だった。

この押し引きな状況が1年半続いた。

店舗レベルは明らかに落ちていた。
活気のあった店が、丼チェーンのような簡素なサービスに変わっていった。常連客が離れていった気がした。
私たちがつくりあげた店の売上が下がり、クーポン戦略と値引きに頼るような店になりかけていた。


第9章:社長の決断

毎年恒例の契約更新の時期が来た。
例年のように社長と1対1で話しをする機会。
私は思い立ってこう切り出した。

「このままではもう契約しません」

「社長の願いは上場だったはずです。
私はその未来だけを見て、ここまで進めてきました。
でも今のままでは無理です。
大手チェーンの偽物になるだけだ。
私は別の道を進みます」

社長は「わかったよ」と言って、席を立った。
その夜、社長から電話があった。

「部長を外すことにした」

取締役部長の解任。連れてきたAMたちも同時に退社することになった。
管理側の社員が一気に11名いなくなった。

元教育店長を営業本部長に据え、新体制を組んだ。
この浄化は、結果的にうまくいくきっかけになった。


第10章:上場へ

私の仕事は、いよいよ上場フェーズへの貢献に移った。
最大の課題は「労務法規の整備」だった。

当時の飲食業界で「週40時間労働」や「週休二日制」は夢のまた夢だった。残業だらけで疲弊した現場があった。

証券会社の出向部長と私で、本社と現場の改革を行った。
出向部長は本社機能を。私は現場機能を担当した。

私はまず、完全週休二日制の導入に着手した。
労務法規の遵守は上場基準を満たすために必須事項だった。
そしてその一番高いハードルは「人件費比率の上昇」だ。

ここにきて、またしても「人件費」という課題が圧し掛かってきた。
どうやら私の飲食人生に、この言葉は切っても切れないもののようだと思った。

私の改革プランこうだった。
人件費率を抑えるには「オペレーションの改良」「職域の拡大」「設備の導入」しかない。

オペレーションは現場がすでに磨き上げてきた。
だから「ひとりひとりの守備範囲を広げること」に集中した。
具体的にフォーメーションを見直して営業本部と一緒にシュミレーションを繰り返した。
何度か繰り返したときに「これでいこう」というプランが固まった。

社長の了承を得て、全店長に宣言をした。

「3ヶ月間は人件費目標に対して+3〜4%を許容します。
その間にしっかり守備範囲を広げるべく能力育成をしてください」

人件費は使っていい。ただしゴールは明確。3ヶ月後にクリアすること。

そして4ヶ月目、なんと全店が人件費率をクリアした。
できない店があるだろうと思っていた。でも全店がクリアだった。
彼らの底力を見た気がした。それをみて感動したことを今でもはっきりと覚えている。

ゴールが明確であれば、人は動く。
この会社の店長たちを誇りに思った瞬間だった。

その3年後、G社はジャスダック上場を果たした。
私は10年にも及ぶ「目指していた場所」に辿り着いたことで、
そこで離れることにした。

その後、G社は東証一部上場を達成している。
今でも私は誇りに思っている。


第11章:U社との出会い

G社の上場に関わったことを知った企業から、オファーが来た。
それはU社。すでに280店舗。近いうちの上場を目指していた。

実は私は G社の仕事と並行しながら、常時5〜10社程度のコンサルを担当していた。U社はその中のひとつとして始まった。

U社は、G社とはまったく違う会社だった。

創業カリスマ社長が引っ張ってきて、ご子息に経営を引き継いだタイミングだった。すごく現場のテンションが低かったことを覚えている。

新社長は40代で、私と年齢も近く、気兼ねなく話せる存在だった。
私を弟のように接してくれていたし、私も損得なしに課題に向き合っていった。

その時に感じた「U社に足りないもの」は、業態開発力だった。

先代がたまたま成功させた業態が多店舗化しただけ。
これまで10も20も新業態にチャレンジして すべて失敗、撤退。
社員は疲弊していた。

業態を成功させるノウハウがない。
カリスマが勢いで強引に280店舗まで持ってきた会社だった。


第12章:業態開発

私はG社とは違うアプローチを取った。

仕組みを作るより、まず業態開発で成功させてしまおうと。
メイン業態に続く、将来100店舗規模を狙える業態を開発し提案した。
郊外ロードサイド型業態。オペレーションとマネジメントをしっかり考えた設計にした。

その年の5月、1号店を静岡県藤枝市にオープン。月商目標をクリア。
12月には27号店まで出店できた。約8ヶ月で27店舗。

この会社は「人の温度」で売れる会社ではなかった。
でも仕組みを作れば、真面目な社員たちがしっかり回してくれる。
その判断が当たった。

結局U社は、280店舗あった旧業態から100店舗以上を新業態に転換。6年後には全7業態で540店舗まで成長し、マザーズ上場を果たした。

私はここで「業態開発」という新たな武器を手に入れた。


第13章:なぜブログを書くのか

私のクライアントは、ほぼ企業だった。
大手がさらに大手になるための手助け。それが私の35年だった。

でも飲食店も、エステサロンも、美容室も、多くは個人店だ。
コンサルなんか頼めない個人店だ。

コロナ以降、苦しんでいる店をたくさん見てきた。
小さくても、しっかり地に足を着けて頑張っている店がある。

その人たちに向けて、何かできないか。
コンサルなんぞ頼まなくても、読んでくれればわかることを書こう。

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